2012年9月8日土曜日

こんにちはゼーマンさん(前編)/ Hello, Mr. Zeman ! (Part 1)


 『私はイタリアサッカーに毒されていない人物を探していたんだ。
私は彼の大胆不敵な部分に魅かれていた。サッカーに対するアプローチと
いう意味でも、そして彼自身のキャラクターという意味でもね。
彼はやる気に満ち溢れていたよ、彼のサッカー哲学、すなわちゴールを
多く決めるという目的を達成するためにね。』
昨年、ローマのGMフランコ・バルディーニは新監督をルイス・エンリケに
託す決定した理由をそう話した。 この言葉は皮肉にも1年後にその後任
となったゼーマンにもそっくり当てはまる。

プラハに生まれたゼーマンは正真正銘のアウトサイダーだ。彼のスタイルを
好むか好まざるかは別として、彼の率いるチームがイタリアでもっとも
情熱的なサッカーを見せてきたのは事実だ。
そんな彼に引き付けられたのが12ヵ月前にアメリカ人オーナーに買収
されてからクラブの新たな礎を築きつつあったローマだった。

ゼーマンは前年の2011/12シーズン・セリエBペスカーラにおいて優勝を
成し遂げた。カルチョの世界の多くの者から称賛を集める彼の名声とは
裏腹にこれが彼にとって1992年にフォッジャで同じタイトルを獲得して以来、
生涯で2つ目のトロフィーである。ただ彼の事を語るのに獲得したタイトルや
メダルの数はあまり意味を持たない。とにかく、このセリエBでの優勝と
共に彼の伝説は始まったのだ。

彼はプーリア州にある3部の弱小クラブを数年でUEFAカップの出場権を
手に入れるところまで引き上げた。ファビオ・カペッロに率いられた守備に
一生懸命なミランが国内、欧州の舞台で実績を積み上げている時に
イタリアに現れた彼の攻撃的サッカーはほとんどエイリアンの様だった。

後に『奇跡のフォッジャ』と呼ばれることになるこのチームは、その後の
彼の攻撃的サッカーの代名詞となる”ゼーマニズム”の出発点となった。
 フォッジャで臨んだゼーマンのセリエAデビューは開幕前にメディアから
無名選手ばかりを寄せ集めたリーグ最弱チームと評されながらも
最終的にはリーグ中位を確保した。



 このシーズン、彼は多くの才能ある無名の若者を世間に紹介する事に
なった。ジュゼッペ・シニョーリ、ダン・ペトレスク、ルイジ・ディビアッジョ、
ブライアン・ロイ・・・だが彼等よりも世の中の注目を集めたのはゼーマンの
採った攻め続ける為だけに考えられたような戦術だった。
この攻撃スタイルのエッセンスを体現したかのようなフォッジャはシーズン
58ゴールを挙げる。これはこの年スクデットを獲得したミランに次いで
リーグ2番目の数字だ。一方で監督がほとんどディフェンスを重視して
いないことの証拠に得点と同じ数だけの失点も計上した。

ゼーマンはそこからラツィオに引き抜かれ、彼らをセリエAで2位と3位に
導いた。その頃にはイタリアのサッカーを観ている者なら皆、彼が
攻撃的サッカーと煙草をこよなく愛している事を知るようになっていた。

ラツィオを解雇され、同じ街のライバルであるローマの監督に就任すると
彼の言動はしばしば論議を呼ぶ様になる。
デルピエロやヴィアッリの体格が短期間に激変したことを指摘して
ユベントスとの間にドーピング疑惑騒動が起こる中、ゼーマンはローマを
なんとか4位に滑り込ませた。

ローマを離れても、彼は常にカルチョの権力者達との闘争を繰り返し
次第に世間は彼を異端児と見なすようになった。彼は遊牧民の様に
2010/11シーズンにフォッジャの監督に再就任するまでの間、ナポリ、
フェネルバチェ、レッドスター・ベオグラード等9つのクラブを渡り歩いた。
フォッジャへの帰還は熱狂的な歓迎と共に受け止められ、就任発表
から僅か24時間で3,000枚のシーズンチケットが売れた。悲しい事に
彼はかつての栄光をスタディオ・ザッケリアにもたらすことに失敗し、
プレーオフへの出場権を逃すとすぐにペスカーラへと去ることに
なったのだが。

→ こんにちはゼーマンさん (後編)に続く